Tokyo University Trombone Club

東京大学トロンボーンクラブ

はじめに

東京大学トロンボーンクラブは、1979年に第1回の演奏会を開催し、以後ほぼ毎年の定期演奏会中心に活動してきました。 2009年に30回目の定期演奏会を行いました。30回目の演奏会を迎えるにあたり、TTCの今までのあゆみを振り返りました。

TTCことはじめ

おそらく1978年の駒場祭が終わった翌週か、あるいはその次の週末辺りだったと思うのだが、われわれはその日の午後、駒場東大前駅の踏切際にある喫茶店「モーゼル」に集まって、東大オケのトロンボーンのメンバーだけでコンサートをやろうということを話し合った。多分、50入学から53入学の諸君、総勢10名ほどだったと思う。もっとも、われわれだけでコンサートをやろうという話は、既に練習の帰りか何かの宴会の場所か、ともかくも小生が酔った勢いで言い出して、みなさんの賛同をいただいていた(無理強いしたかもしれぬが)ように記憶するので、その「モーゼル」での集会では、運営方法や費用の捻出手段など実務上の相談事が主で、加えて決起集会の意味合いも多少あったかもしれない。 さて、われわれがコンサートをやろうと考えた理由については、東大オケのトロンボーンセクションが曲がりなりにも自前でコンサートを持てるほどの人数に達したこと、および、当時今井先生が入手された数曲の8人編成のアンサンブルが、われわれには非常に魅力的な響きがすると感じたことなどが思い起こされる。したがって、人数確保のため、入学したばかりの53の4人の諸君に逃げられてはまずいという下心から、小生は入学当初より「1年生クァルテット」と称して4人でのアンサンブルをせっせとお勧めし、曲のタイトルはすっかり失念してしまったが、ボロディンの小曲をその4人が盛んにさらっていた情景を克明に記憶している。今想像すると、あの芸のない短い曲を、よく半年以上にわたって飽きずに練習できたものだと感嘆の念を禁じ得ないのが、小生の本音でもある。 一方、遡って小生が入学した50年の夏合宿-北軽井沢では、その年の定演のメインがマーラーの5番のシンフォニーであったのに、トロンボーンは小生と49の春山さんしか人がいなかった。他のパートが隆盛であったのに比べて、われわれはいささか意気上がらず、周囲の冷たい視線にひどく肩身の狭い思いをしていた。それが、51以降次々と名手がオケに参加されて、徐々にオケ内のトロンボーンの発言力や立場も強くなってきていたことからも、コンサートをやろうという雰囲気は徐々に熟成されていたのである。また、もうひとつ小生が東大オケのトロンボーンだけでコンサートを持ちたいと感じた理由があった。それは、われわれの第1回コンサートに先立つ1年ほど前だったか、小生がジュネスのオケで知り合った友人たちと、そちらの方は小生は誘われて参加したのだが、やはり10人ほどでトロンボーンアンサンブルのコンサートを持った。ところが、結果は小生にはいささか不満足なものになってしまった。つまり、ジュネスの参加メンバーとは言え、アンサンブルでの呼吸の合わせ方などが微妙に合わないために、何というか実に深みのない、薄っぺらなコンサートになってしまったという忸怩たる思いがあった。それで、小生はいつかは自分たちだけで。。。と秘かに期していたわけである。 ここで、「東京大学トロンボーンクラブ」という名前の由来に触れておこう。クラブという名前は、実は当時、「東京ホルンクラブ」という団体があって、こちらは元N響の千葉馨さんをリーダーとする錚々たるプロ奏者のグループであった。小生は寡聞にして本家のホルンクラブが現在も活動しているのかどうか知らないが、そのころ、小生はホルンクラブのコンサートの響きには誠に強く魅了され、その影響で「東京大学トロンボーンクラブ」なる名称になったのだと思う。 さて、冒頭に述べた「モーゼル」での決起集会のことは小生の記憶に残っているが、その後の練習やコンサートまでのことはほとんど覚えていない。当日は、小生がシュペールのGの音を大外ししたことや、バッハの4本のフーガで最後の小節に入る直前に、それまでほとんどずれたことがなかったのに、小生とバストロンボーンの名手の宮内くんとの呼吸が合わず大失敗したこと(小生が練習のとき以上に大きくリタルダンドしてしまったのが失敗の原因)、セロツキの終曲のBのトリルがB-Cなのに、バテバテでB-Asになってしまったことなど、ともかく自分の失敗ばかり克明に記憶している。 ちなみに、上述の宮内くんは小生と同じく50入学で、惜しくも1995年の11月にロンドンで急逝されたが、その少し前に小生は愚妻とともにイギリスに行く機会があり、彼のロンドン郊外のお宅に寄り道した。そのとき、彼は小生に1枚のCDを進呈してくれたのだが、それは彼がベルリンで入手されたベルリンポザウネンゾリステンなるトロンボーンクァルテットのCDであった。そのCDはもちろん今も小生の手元に残っていて、未だに聴くたびに複雑な思いがよぎるのを禁じ得ない。宮内くんは、小生がわれわれだけでトロンボーンのコンサートをやろうとはじめて語らった(というのは、彼は何事にもほとんど反対しない温厚な人柄だった)友人であり、聖ヴァレンタインブラスアンサンブルの前身のグループでも一緒に吹いていただけに、本稿のために当時の記憶を発掘していると何度も小生の脳裏に出没し、哀しみを深くしたような次第である。紙面をお借りしてご冥福を切にお祈りしたい。 さて、記憶の糸を手繰って、第1回コンサートの前夜の状況を書いてみたが、昨今のメイルによるみなさんのやり取りを垣間見ていると、やはり20年もの時間の重みを痛感させられる。また、誤解を怖れずに言えば、黎明期にわれわれが考え、活動したことは、今となってはどういう意味があったのか、自問しても小生には今ひとつ明確な回答が得られないで居る。ただ、第1回以来のコンサートに参加された数多くの人たちが、それぞれの回答を得ていらっしゃるなら、小生にはそれにまさる喜びはないことだけは確信している。

昭和50年度入団 告野昌史

Copyright © 2026 TTC All Rights Reserved.

Tokyo University Trombone Club

東京大学トロンボーンクラブ

はじめに

東京大学トロンボーンクラブは、1979年に第1回の演奏会を開催し、以後ほぼ毎年の定期演奏会中心に活動してきました。 2009年に30回目の定期演奏会を行いました。30回目の演奏会を迎えるにあたり、TTCの今までのあゆみを振り返りました。

TTCことはじめ

おそらく1978年の駒場祭が終わった翌週か、あるいはその次の週末辺りだったと思うのだが、われわれはその日の午後、駒場東大前駅の踏切際にある喫茶店「モーゼル」に集まって、東大オケのトロンボーンのメンバーだけでコンサートをやろうということを話し合った。多分、50入学から53入学の諸君、総勢10名ほどだったと思う。もっとも、われわれだけでコンサートをやろうという話は、既に練習の帰りか何かの宴会の場所か、ともかくも小生が酔った勢いで言い出して、みなさんの賛同をいただいていた(無理強いしたかもしれぬが)ように記憶するので、その「モーゼル」での集会では、運営方法や費用の捻出手段など実務上の相談事が主で、加えて決起集会の意味合いも多少あったかもしれない。 さて、われわれがコンサートをやろうと考えた理由については、東大オケのトロンボーンセクションが曲がりなりにも自前でコンサートを持てるほどの人数に達したこと、および、当時今井先生が入手された数曲の8人編成のアンサンブルが、われわれには非常に魅力的な響きがすると感じたことなどが思い起こされる。したがって、人数確保のため、入学したばかりの53の4人の諸君に逃げられてはまずいという下心から、小生は入学当初より「1年生クァルテット」と称して4人でのアンサンブルをせっせとお勧めし、曲のタイトルはすっかり失念してしまったが、ボロディンの小曲をその4人が盛んにさらっていた情景を克明に記憶している。今想像すると、あの芸のない短い曲を、よく半年以上にわたって飽きずに練習できたものだと感嘆の念を禁じ得ないのが、小生の本音でもある。 一方、遡って小生が入学した50年の夏合宿-北軽井沢では、その年の定演のメインがマーラーの5番のシンフォニーであったのに、トロンボーンは小生と49の春山さんしか人がいなかった。他のパートが隆盛であったのに比べて、われわれはいささか意気上がらず、周囲の冷たい視線にひどく肩身の狭い思いをしていた。それが、51以降次々と名手がオケに参加されて、徐々にオケ内のトロンボーンの発言力や立場も強くなってきていたことからも、コンサートをやろうという雰囲気は徐々に熟成されていたのである。また、もうひとつ小生が東大オケのトロンボーンだけでコンサートを持ちたいと感じた理由があった。それは、われわれの第1回コンサートに先立つ1年ほど前だったか、小生がジュネスのオケで知り合った友人たちと、そちらの方は小生は誘われて参加したのだが、やはり10人ほどでトロンボーンアンサンブルのコンサートを持った。ところが、結果は小生にはいささか不満足なものになってしまった。つまり、ジュネスの参加メンバーとは言え、アンサンブルでの呼吸の合わせ方などが微妙に合わないために、何というか実に深みのない、薄っぺらなコンサートになってしまったという忸怩たる思いがあった。それで、小生はいつかは自分たちだけで。。。と秘かに期していたわけである。 ここで、「東京大学トロンボーンクラブ」という名前の由来に触れておこう。クラブという名前は、実は当時、「東京ホルンクラブ」という団体があって、こちらは元N響の千葉馨さんをリーダーとする錚々たるプロ奏者のグループであった。小生は寡聞にして本家のホルンクラブが現在も活動しているのかどうか知らないが、そのころ、小生はホルンクラブのコンサートの響きには誠に強く魅了され、その影響で「東京大学トロンボーンクラブ」なる名称になったのだと思う。 さて、冒頭に述べた「モーゼル」での決起集会のことは小生の記憶に残っているが、その後の練習やコンサートまでのことはほとんど覚えていない。当日は、小生がシュペールのGの音を大外ししたことや、バッハの4本のフーガで最後の小節に入る直前に、それまでほとんどずれたことがなかったのに、小生とバストロンボーンの名手の宮内くんとの呼吸が合わず大失敗したこと(小生が練習のとき以上に大きくリタルダンドしてしまったのが失敗の原因)、セロツキの終曲のBのトリルがB-Cなのに、バテバテでB-Asになってしまったことなど、ともかく自分の失敗ばかり克明に記憶している。 ちなみに、上述の宮内くんは小生と同じく50入学で、惜しくも1995年の11月にロンドンで急逝されたが、その少し前に小生は愚妻とともにイギリスに行く機会があり、彼のロンドン郊外のお宅に寄り道した。そのとき、彼は小生に1枚のCDを進呈してくれたのだが、それは彼がベルリンで入手されたベルリンポザウネンゾリステンなるトロンボーンクァルテットのCDであった。そのCDはもちろん今も小生の手元に残っていて、未だに聴くたびに複雑な思いがよぎるのを禁じ得ない。宮内くんは、小生がわれわれだけでトロンボーンのコンサートをやろうとはじめて語らった(というのは、彼は何事にもほとんど反対しない温厚な人柄だった)友人であり、聖ヴァレンタインブラスアンサンブルの前身のグループでも一緒に吹いていただけに、本稿のために当時の記憶を発掘していると何度も小生の脳裏に出没し、哀しみを深くしたような次第である。紙面をお借りしてご冥福を切にお祈りしたい。 さて、記憶の糸を手繰って、第1回コンサートの前夜の状況を書いてみたが、昨今のメイルによるみなさんのやり取りを垣間見ていると、やはり20年もの時間の重みを痛感させられる。また、誤解を怖れずに言えば、黎明期にわれわれが考え、活動したことは、今となってはどういう意味があったのか、自問しても小生には今ひとつ明確な回答が得られないで居る。ただ、第1回以来のコンサートに参加された数多くの人たちが、それぞれの回答を得ていらっしゃるなら、小生にはそれにまさる喜びはないことだけは確信している。

昭和50年度入団 告野昌史

Copyright © 2026 TTC All Rights Reserved.